〇降谷さんが、ふらっと警視庁に現われて、風見さんと痴話げんかごっこをします
〇パートナーがいないときであれば、風俗を使うタイプの風見さんが出てきます
〇風見さんが女性との交際歴があります
〇モブ部下が出てきます
〇降谷さんが、いろいろとおかしい
〇こーあん、きっとこんなに暇じゃない……
※ギャグです
※なんでも許せる方向け
最初に仕掛けてきたのは、降谷さんだった。
『風見、痴話喧嘩ごっこをしないか?』
俺の財布に入っていたはずの、いかがわしい店のポイントカードをぴらぴらさせながら、降谷さんが言った。
どういうことかとたずねれば、俺の部下たちに、そういうドッキリを仕掛けようというのだ。
それは、梅雨が明けるか開けないかの、蒸し暑い日のことで。
降谷さん、熱中症にでもなって、頭おかしくなったのかな……って、そのようなことを思った。
それでも、俺は部下だから、降谷さんの話を聞く。
降谷さんの考えた筋書は単純明快だった。
① 俺の財布から、風俗のポイントカードを見つけた降谷さんが、俺につめよる
② 当初、俺はシラを切ろうとするが途中から開き直る
③ 風俗通いに対して、まったく反省の色を見せない俺に、降谷さんが泣き出す
④ 俺が甘い言葉で降谷さんをなだめすかし、頭をなでたところで大団円
茶番というにふさわしい展開だ。
どうして、こんなことをする必要があるのだろう……と思ったし、実際に降谷さんにたずねた。
『なぜ、そんなことを?』
『最近、君たちにやっかいな仕事を頼み過ぎていたから、少し緊張をほぐそうと思ってな』
『ああ、そういうことですか……(?)』
本当に和むのだろうか? という疑問は、口にしなかった。
そんなことよりも、財布にしまってあったはずのショッキングピンクのカードを、なぜ降谷さんが手にしているのか……そちらの方がよほど気がかりだ。
部下たちがデスクワークをしている傍らで、降谷さんが、俺に声をかけた。
ドッキリ大作戦の決行である。
「風見、話がある」
降谷さんの声は、とても、ひんやりしている。
迫真の演技だ。
フロアに緊張感が走った。
「はい……なんでしょうか?」
席を立ち、降谷さんの前で、直立不動の姿勢を取る。
「なあ、風見、これ……なんだ?」
降谷さんが、例のポイントカードを俺の眼前に突きつけた。
「なにかの……ポイントカードでしょうか?」
「そうだな。ポイントカードだ。それも、スタンプがあと2つで3000円引きになるようだ」
「……はあ」
「店名……なんて書いてある?」
「……読むんですか?」
「ああ」
降谷さんがジト目でこちらに視線を送る。
「いちごむすめ……って、書いてありますね」
「いちごむすめの前に、なんて書いてある?」
「……え?」
「なんて書いてある?」
「……ファッションヘルス」
「そう……ファッションヘルスいちごむすめ、だ」
フロアから、キーボードをたたく音が消えた。
「えーと。で、そのポイントカードがどうしたんでしょうか?」
「君の……財布から出てきた」
「え……? そんなの入ってました?」
「入ってた」
「えーと……じゃあ、誰かが落としたカードを、俺が拾って入れたとかですかね……ほら、酒飲んでたりすると、そういうことあったりするじゃないですか?」
「君……酔っても、すぐさめるタイプだろ?」
「え? まあ、そうですけど」
「でも……そうか…このカード。君のじゃないんだな……?」
「ええ」
「……なら、破っても問題ないな?」
降谷さんが、カードを両手で持ち、指先に力を入れる
「ちょっと……待ってくださいよ…それ、あと1回行けば3000円引きなんですよ!」
次のお会計でスタンプが2つもらえて3000円引き券が発行されるから、さらに、その次の利用時にオプションつけるか、延長を使ってじっくりプレイを楽しもうと考えていたのに……
「でも、君のじゃないんだろ?」
「……いや、俺のです。破らないでください」
「へー……君、僕というものがありながら、ポイントがこんなにたまるまで…通ってたんだ? ファッションヘルスいちごむすめ。しかも、このポイントカードの発行日、三か月前だよな? どんだけ通いつめてるんだよ!!」
部下たちは、とうとう息を殺し始めた。
いたたまれない気持ちになる。
「……ちょっと…降谷さん……部下たちの前ですよ」
「知るか! 風見が風俗通いをやめないのが悪いんだろ?」
確かに、それもそうかもしれない。
自分とて、公安警察のはしくれ。
ハニートラップには、最新の注意を払わなければならない。
安全確認の取れている店だから安心……などという考えは、甘いのかもしれない。
とはいえだ。
パートナーがいない今、性欲処理をするためには右手を使うかセックスワーカーのお世話になるしかない。
30の男が右手ばかりというのは少しわびしい感じがするし、なにより、せっかくここまで通いつめてきたんだ。
ポイントカードをいっぱいにしてみたい。
「そうは言っても…ですね……。しょうがないじゃないですか。たまるもんは、たまるんだから、発散させないことには業務に支障が出ます」
「いいわけは聞きたくない…君、僕のこと…もう飽きちゃったんだろ?」
降谷さんは、そう言うと、大粒の涙を流した。
事前の打ち合わせでも、泣くという設定になっていたから、泣き出したこと自体には驚かなかった。
けれど、降谷さんの演技力の高さには感嘆せざるをえない。
フロアに、降谷さんがすすり泣く声が響きわたる。
俺は、とっさに降谷さんを抱きよせた。
いや……抱き寄せるというのは、事前に決めた段取り通りではあったんだけれど。
演技とはいえ、この人が涙する姿を初めて見て、俺はいてもたってもいられない気持ちになった。
腕の中で、降谷さんの体が、びくんと震える。
……演技だとわかっていても、ちょっと…かわいいな……と思う。
「ごめん」
「ゆるさない」
「もうしないんで」
「うそつき」
「泣かないでくださいよ」
そう言って、降谷さんの頭をなでる。
「泣いてない」
「ねえ……降谷さん…俺に、飽きられたと思ったんですか?」
俺の腕の中で、降谷さんがこくんとうなずいた。
「馬鹿だなあ……飽きるわけないじゃないですか……」
「じゃあ…もう……風俗通い……やめるな?」
やめます! と言いたいところだが。
……ごめんなさい。そこは即答できないです。
降谷さんが、無言になった俺をにらみつける。
「風見…やっぱり……僕のこと……」
降谷さんが、涙を必死にこらえる。
演技だとわかっていても、ものすごい罪悪感が湧いてくる。
それに、基本的に、俺はこの人に逆らうことはできないのだ。
それは、性生活というもっともプライベートな個人的事情においても、例外ではないらしい。
もう、どうにでもなれ……半ばやけくそ気味に、受け答える。
「あー…わかりました。行きません」
「絶対にうそだ……。これだけの頻度で風俗に通ってた男がすぐに辞められるとは思えない」
ああ…降谷さんの演技……。
なんて、いい感じに面倒くさいのだろう。
たかが茶番に、ここまでキャラを作りこんでくるなんて、さすがとしか言いようがない。
「いや、やめる……やめ…ますから」
「破って…」
「は?」
「もう行かないなら……ポイントカード……破れるよな?」
「え…?」
「もう、行かないんだろ? ファッションヘルスいちごむ…
ああ、もう、こうなったら腹をくくるしかない
「はい、行きません。カードも破ります!」
降谷さんが、俺の顔をじーっと見つめる。
俺も、降谷さんを見つめ返して、背中をぽんぽんとたたいてやる。
降谷さんの頬が少しだけ赤らんだ気がした。涙で潤んだ青い瞳がたれ目でかわいい。
本当にきれいな顔をしている。
その顔をもう少しだけ、間近で見つめていたくて。
もうちょっとだけ、抱きしめていたいような気持になったけれど、視界の端で部下たちがものすごい渋い顔をしていた。
この茶番をいたずらに長引かせるわけにはいかない。
だから仕方なく、腕をほどいた。
降谷さんから、ポイントカードを受け取り、それをびりびりに引き裂く。
「風見……!」
「降谷さん……」
――こうして、俺たちは仲直りしましたとさ……!
というところで種明かし。
俺は、デスクの引き出しに手を伸ばし、降谷さんが事前に準備した「ドッキリ大成功!」のミニプラカードを掲げた。
「はい……ドッキリでした」
降谷さんが腕組みをし、部下たちに視線をやる。
部下たちは、ポカンとした顔で、俺と降谷さんの顔を交互に見ていた。
「おい……お前たち、リアクション薄すぎだろ?」
部下たちの、あっけにとられた顔がおかしくて、思わず笑う。
「あーびっくりした」
一人がそう言って、笑い出す。
他の面々も、彼につられて笑い始めた。
そして、みな一様に、降谷さんの演技力の高さをほめたたえた。
降谷さんは、少し笑い。そして、その場を立ち去った
休憩時間、部下と二人で、缶コーヒーを飲む。
部下が笑いながら、先ほどのドッキリについて話し始めた。
「しかし、あれ、なかなか凝ってましたね。小道具のポイントカードとかも作ったんですか?」
「……あれな…あのポイントカード、俺の私物なんだよ」
「は?」
俺はスラックスのポケットから、ポイントカードの破片たちを取り出し部下に見せた。
「セロテープで貼り合わせれば、いけるか…?」
「いや……マジすか、風見さん」
「しょうがないだろ。俺、ここ何年も彼女いないんだから…それに、ここは組対の知り合いが紹介してくれた優良店だし……」
「あー……まあ。俺らの仕事、彼女とか作るの難しいですしね」
「だろ?」
バラバラになった、ポイントカードを見ながら、一つため息をつき。俺はその場にあったごみ箱に捨てた。
「……しかし、降谷さんも風見さんも、掛け合い完璧でしたね。セリフもあんなにあったのに。練習とかもしたんですか?」
「いや……ぶっつけ本番」
「え?」
「だいたいの段取りは決まってたけど、セリフは決まってなくて。大体アドリブ」
「えー? それ、すごくないですか?」
「そうなんだよ。降谷さんが本当にすごいんだ」
「え、風見さんもすごくないですか?」
「いや、俺な……あれ、だいたい素だったから。ああいうの慣れているというか……」
そう。
なにを隠そう俺は、痴話げんかの際に、俺を責め立てたり泣き出したり、泣き出したと思ったらまた責め立ててくるタイプの女子に縁があるのだ。
元カノの大半が、ああいうタイプだった。
「え……? 慣れてるって……風見さん、彼女いても風俗通いしてたんすか?」
「いや……そこじゃなくて……なんというか、ああいう痴話げんかをするタイプの子とつき合いことが多くて」
「あー……なんか、想像できるかも? じゃあ、ああいうタイプが好きってことですか?」
「うーん……なんていうか」
「なんでしょう?」
「ああいう痴話げんかした後のあれってな、すごく燃えるんだよ」
我ながら、稚拙な行為だったと思う。
けれども、そうしなければ、僕は風見に「風俗に行くのをやめてほしい」と言えなかったし。
彼の腕の中で、頭を撫でられることもなかっただろう。
風見は、僕のかわいい部下だ。
先日、風見は僕に手をさし出した。
僕はその手に自分の右手を重ねた。
その手の力強さ。
もっと触ってみたくて。
その想いは、日に日に大きくなり。
僕は、風見の一挙一動を、目で追うようになってしまった。
それは、数週間前のこと。
風見と食事をしたあと、僕は彼の財布のカード入れに、ショッキングピンクのそれが入っていることに気がついた。
ショッキングピンクのそれの正体を割り出すことは簡単だった。
ちょっとした隙をついて、僕はそれを風見の財布から抜き出した。
罪悪感は、もちろんある。
けれど、僕は、そのショッキングピンクが気になって仕方なかったのだ。
そのカードを見た瞬間、僕は、ひどく落ち込んだ。
僕だって、29年間この国で、この国の人間として生きてきた。
仕事柄、どろどろした人間社会の影みたいなものに直面することも多い。
風見裕也が30歳の男盛りで、健康状態が良好であることも理解している。
だから、風見が、こういう店に通っていることも、彼が健康であるということの証左であり、こんなことに動揺する自分がおかしいのだということもわかっている。
けれども、実際の僕は、とても動揺したし。
(このようなサービスを利用するということは、彼には、現在、恋人のような人はいないのかもしれない……)とか、そのようなことを考え、そういう自分の思考回路に落胆した。
このような現象を、一般的に、なんと呼ぶのかを知っている。
しかし、それを自覚したところで、なにになると言うのだろう?
僕にはやるべきことがあり、守るべきものがある。
そして、風見は、そういう僕をサポートするための存在だ。
だから、風見とは適切な距離を保たなければならない。
けれども、こっそりとカードを抜き取るたび。
そのショッピングピンクのポイントカードにはスタンプが増えていった。
僕は、彼の上司だから。
ラインケアの一環として、彼の健康を守る義務がある。だから、風見の食生活や睡眠サイクルに口出しすることはある。
けれども、さすがに、「性欲」というもっともプライベートな領域に口出しする権限はない。
彼に「風俗を控えてほしい」と言える権限があるのは、プライベートな意味でのパートナーのみであり。
ただの上司に過ぎない僕が彼にそんなことを言う権利はないのだ。
それでも。
僕は、自分で自分を納得させることができなくて。
それで、痴話げんかごっこをしようなどと、大変浅はかなことを思いついたのだ。
基本的に僕に対して従順である風見は、その提案に乗った。
そして、見事に、痴話げんかごっこという茶番を演じきった。
風見の手のひらが僕の頭をなで、風見の腕が僕を抱きしめた。
そして、風見はもう風俗通いはしないと言って、あのショッピングピンクの紙切れをびりびりに引き裂いた。
風見とその部下たちは、僕の演技をほめそやした。
僕の声色を。
僕の涙を。
とても上手な演技だと、ほめそやした。
けれど、あれは、僕の本音だった。
ごっこ遊びという、虚構に託した僕の本音。
すべては、フィクションであるという前提のもと、僕は盛大に本音を吐露した。
けれども、あれは、すべて嘘。
ごっこ遊びに過ぎなかったんだ。
だから、風見の手帳に、きらびやかな名前の名刺を見つけたとしても、僕はそれを責める権利を持ち合わせてはいない。
彼には、決まった相手はいなかったし、彼が使っている店はカイシャの息のかかった、比較的安全な店で、なんなら、労働者に対する福利厚生も悪くないようだった。
これくらいのことを、探るのはたやすい。
僕には、部下の交友関係やプライベートをある程度把握する権限がある。
けれども、僕には、彼がついた「風俗をやめる」という嘘をとがめる権利はないのだ。
むなしい気持ちになりながら、その名刺を見つめていた。
そして、僕は、完全にぬかっていた。
仕事の帰りに二人で立ち寄った飲食店で。
その名刺を手にしているところを、トイレに行ったはずの風見に見つかってしまったのだ。
『あ、降谷さん。それ見つけちゃいました? どうです? もう一回やってみません? 痴話げんかごっこ』
二度目の茶番を、持ち掛けてきたのは風見だった。
二度目……三度目、四度目と、俺と降谷さんは、その遊びを繰り返した。
部下たちも、だんだん慣れてきて、俺たちがどんな展開でけんかを繰り広げるのか楽しみにしているらしかった。
というか、俺も彼らも。
降谷さんがこうやって、バカしてることが嬉しくて仕方ないのだ。
業務の合間のほんの10分程度のその茶番は、降谷さんが当初言った通り、部下たちの心を和ますことに成功しているようだった。
けれど、降谷さんの体に触れて。
降谷さんの顔を間近に見つめて。
降谷さんの息遣いを聞いている俺は、和む以外の感情を抱いた。
だって、俺に抱きしめられてる時の降谷さん。本当に俺の恋人なんじゃないかと錯覚するくらいに、俺のことを愛おしそうに見つめるのだ。
ああ、これが潜入捜査官の実力か? トリプルフェイスおそるべし。
それに、もう一つ、俺は不適切な衝動を覚えた。
ざっくりいうと、俺は降谷さん相手に、劣情を催していた。
降谷さんに合法的に抱き着きたくて。
俺は、部屋に保管してあった嬢の名刺を使って、降谷さんを茶番に誘った。
風俗通いは辞めたから、ポイントカードに代わるものとして、それらの名刺を降谷さんの目につくところに仕込んだ。
降谷さんは、毎度毎度、それを見つけ出した。
5回目の茶番は、どちらからしかけたのか。
明確な打ち合わせもなく、それは突然に始まった。
フロアのメンバーは、仕事の手を止めて、俺たちの茶番を鑑賞し始めた。
最近は時折、ヤジなんかも飛んでくる。
降谷さんは、名刺を使って、俺を責め立て
「やっぱり、僕のことなんて、もう好きじゃないんだ……」
とかんしゃくを起こした(ような演技をした)。
俺は、そんなことない。愛してると、伝えたが、今日の降谷さんの怒りのトーンはなかなか落ちてこない。
むしろヒートアップしていくばかりだった。
そして、降谷さんが、ちょっと洒落にならないことを言った。
「じゃあ、キスして……僕のこと好きだとか、愛してるっていうなら、キスをしてくれよ……君の言葉を信じられないんだ。風俗辞めたと言いながら、名刺、ポケットや手帳に潜ませてさ……」
「降谷さん、部下の前で何言ってるんですか?」
俺のその言葉に、降谷さんはむしろ逆上した。
「部下がいるからなんだよ?! 愛してるならできるだろ? それとも、キスできないのか?」
無茶を言う……
けれども、売り言葉に買い言葉。
それに、この茶番が終わるまでは、降谷さんは俺の恋人なのだ。
俺は眼鏡を取り、ジャケットのポケットにそれをしまった。
視界がぼやけるから、降谷さんがどういう顔をしているか、判別がつかない。
顔をぐっと近づけて、ようやく、降谷さんが目をぱちりと見開いていることに気がついた。
右手をその後頭部にまわし、唇を合わせる。
せっかくだから、とことんやってやれと思って、左手を降谷さんの尻に添えた。
舌で、降谷さんの唇をなぞって、その唇をわる。
左手で、お尻をもんだ。丸くて、とてもきれいな形をしている。
するりと臀裂をなぞれば、降谷さんの体が一瞬こわばり、それから、くたっと力が抜ける。
そのすきに、舌をぐにぐにと、口腔内に推し進める。
くちゅくちゅと、自分の唾液を降谷さんの中に送り込む。
久しぶりのべろちゅーの気持ちよさに酔いしれる。
降谷さんの唾液と、自分の唾液が混ざり合い、あふれそうになる。
するすると、それをすする。
と、そのタイミングで、降谷さんが俺を思い切り突き放した。
あわてて眼鏡をかける。
俺のせいで降谷さんの髪はぐちゃぐちゃで
息が上がっていて
唇がてかりと光っていて
ジャケットがずるりと乱れていて
とても目に毒だった。
こういう時に限って、部下たちは誰もヤジを飛ばさない。
『降谷さんに何やってるんだ?!』とか『やりすぎだぞー!』とか、なんとか言ってくれ。
降谷さんは、中途半端に乱れた髪を、両手でぐっちゃぐちゃにして。
それから、ジャケットのボタンを外しくるりと踵を返した。
俺は、その背中を追いかけなかった。
ルールを逸脱した……と思った。
ぎりぎりお遊びで済む程度の、痴話げんかごっこを俺たちは演じてきたのに。
キスなんて、おでこや頬に軽く落とすだけでもよかったのに。
どう考えても、このキスはやりすぎだった。
休憩時間。
コーヒーを買いに行くと、部下の一人とはちあった。
部下は遠慮がちに言った。
「あれ……段取り通りだったんですか…?」
自販機から缶コーヒーを取り出しながら答える。
「なわけないだろう……」
「ああ、やっぱり?」
「なあ、どう思った?」
「いや……風見さん、無茶するなあって…」
缶コーヒーのプルタブに手をかけながら、隣のボタンと押し間違えたことに気づく。
……苦いのを飲みたい気分だったのに。
甘いカフェラテを口に含む。
「ていうか、キスするにしても、もうちょっと加減できなかったんですか?」
「んー……俺、べろちゅー好きなんだよ」
「あー……まあ、俺も好きですけどね…真昼間に、よりによって上司にやったらだめでしょ?」
「いや、案外いいかもよ? 上司との昼間のキス。俺うまいしさ。試してみる?」
「は? なに言ってんですか?」
部下が、顔をゆがませながら俺から距離を取った。
「はは……だよな。冗談でもいやだよな」
そう、 普通、職場で上司から冗談でキスを求められても、それに応じようなんて思わない。
いくら、俺と降谷さんが、茶番の中では恋人同士という設定だったとしても……だ。
それにしたって
「あー、もっぺん、べろちゅーしたい……」
思わず、本音がこぼれ落ちる。
部下が、嫌悪感たっぷりに答える。
「だから…風見さん……俺は、無理ですよ」
「いや、俺だって、お前とはしたくないよ」
「はぁ?! なんですかこの展開? なんか、俺、微妙な心境なんですけど?!」
甘いコーヒーを、一気に胃袋に流し込む。
さあ、さっさと仕事を切り上げて、あの人に会いに行こう。
警視庁を後にして、僕はとりあえず、安室透の自宅として借りているアパートに帰った。
じゃれついてくるハロに謝りながら、シャワーの準備をしてバスルームに駆け込んだ。
服をその辺に放り投げ、熱いシャワーをかぶる。
いそがしい時間の合間を縫って続けた、痴話げんかごっこという遊び。
一度きりのつもりだったそれは、風見からの誘いで二度目になり、それから、三度四度と続き。確か今日が、五度目だった。
ほんの十分程度。
その茶番を演じる時だけは、僕と彼は、恋人同士で。
すべては嘘であるという保証の下、僕は彼への思いを言葉や仕草で表現する。
とはいえ「キスをして」だなんて。
あれはどう考えても失言だったし。
風見のキスがいくら強引だったとはいえ、あんなふうに動揺したのは、失態としか言いようがない。
というか、そもそも、あれはなんだ。
怒りと戸惑いと恥ずかしさと、それから……快感のようなものを思い出す。
中学生じゃあるまいし。
これくらいのことで、動じるなんて、普通じゃないと思う。
けれども。よりによって、職場であんなことをすることないじゃないか。
いや、キスをねだったのは僕だけれども。
風見が、あんなキスをするなんて、予想できなかったし。
シャワーを終えて、私服に着替えた。
ハロをなでながら、進行中のいくつかの案件のスケジュールを思い浮かべる。
何もかもが、順調……というわけではないが、今日はこのまま休養しても問題ないだろう。
メンタルを、整えなければならない。
今夜は久しぶりに、少し手の込んだ夕飯を作ろう。
「……作りすぎた」
テーブルの上に並ぶいろいろとりどりの料理を眺めながらため息をつく。
いつもであれば、作りすぎた料理は、弁当にして風見に差し入れるのだが。
あんなことがあった後では、そうもいかないだろう。
早めの夕飯を終えて。食器を洗い。保存容器に料理を詰め始めたところで、スマホがなった。
風見からの着信だった。
一瞬、躊躇したが電話を取る。
時刻は19時を回ったところ。
きっとまだ風見は仕事中だし、そうとなれば、これも仕事に関わる電話に違いない。
と、思ったのに。
風見は、すでに職場を出ていて、できれば今すぐ、僕に会いたいと言った。
足元で、ハロがじゃれついてくる。
ワンという無邪気な鳴き声。
『あ、ワンちゃんの鳴き声……ですね。では、今からそちらの部屋に……』
「いや……僕が行く」
『え?』
「君、仕事終わって疲れてるだろう? だから、さっさと帰れ」
『でも……降谷さん、俺の家に来たことないですよね』
「行ったことなくても、住所を知ってれば行ける」
僕は、そう言うと、大急ぎで料理を容器に詰めた。
風見の家に行くのは、初めてだった。
きっと、これが最初で最後の訪問になるだろう。
風見の家についたら、何と言おう。まずは、今日のことを謝罪して、それから、風見の気持ちを聞こう。
つまり、僕とこんなことになってしまって、今後も、僕の右腕を続ける意思があるかどうか。
電話で風見に教えてもらったコインパーキングに車を停める。
最後になるであろう、料理の差し入れを片手に、彼の部屋を目指す。
そして、ドアの前に立ち、インターフォンを鳴らすと、ぺらぺらのTシャツにイージーパンツというラフないでたちの風見が、勢いよくドアを開けた。
「降谷さん……お疲れ様です」
昼間のことなんて、何もなかったように風見が僕を出迎える。
「ああ……お疲れ。これ……君に。差し入れ。いつものごとく残り物だけど…よかったら」
「あ、ありがとうございます。夕飯まだだったんで助かります」
部屋に上がる。
風見に促されて、二人用の小さなダイニングテーブルに座る。
「降谷さん、これ、食べてもいいですか?」
「ああ…構わないけど……」
「あ、冷たいジャスミン茶、作ってありますけど飲みます? 30分くらい経ったから、多分出てると思いますけど」
「うん…。じゃあ、いただこうかな」
思いのほか、おしゃれなタンブラーとコースターがセット出てくる。
僕は、ジャスミン茶を一口飲みながら、レンジで料理を温める風見の後ろ姿を見つめた。
「お茶……おいしいよ」
「ああ、おいしいですよねジャスミン茶。焼酎をね、ジャスミン茶で割ってもうまくて……」
「そうなんだ」
「ええ。あと、チョコと合わせてもうまいんですよ。ジャスミン茶入りのチョコなんてのもあったりして」
「うん」
風見は、なかなか、本題を切り出さなかった。
レンジから取り出した料理をテーブルに並べて、風見が、ようやく僕と向かい合って座った。
「で、話なんですけど」
「うん」
「あの……痴話げんかごっこ、もうやめませんか?」
風見が、予想通りのことを言った。
「うん。僕も、そう思う……あんな茶番につき合わせて悪かったな」
「いや……楽しかったですよ」
「そうか……」
僕も楽しかった、と、言いかけてやめた。
「だけど、次からは、ごっこじゃなくて、ちゃんとした痴話げんかをしたいなって思ってるんですよ」
風見は、そう言うと、エビが入った冷菜をほおばった。
「は?」
「あ、これおいしいです」
「ああ、だろう? 隠し味に魚醤をすこしだけ入れてて……って、そうじゃなくて。ちゃんとした痴話げんかって、なんだよ?」
「……そのまんまの意味ですよ。俺、あなたと、恋人としてけんかしたい」
嘘から出た真……
というか、なんというか。
けれども、僕はその告白を受け入れるつもりがなかった。
「……君が、僕のことをどう思っているかわからないけど…。僕は、君が思っているような人間じゃない」
「と、言いますと?」
「君の行動になんて、興味ありませんて顔して……でも、本当は、すごく気になってた。ドッキリだとか、なんだとか、理由づけしたけれど、僕は結局、君に風俗に行くのをやめてほしかっただけだし……それに、君の体に触れたかっただけなんだ」
努力家で一生懸命で丈夫な君は、僕の部下として十分に働いてくれているけれど。
素直で、まっすぐな君だからこそ、きっと僕の……恋…の相手は務まらない。
「……降谷さん…それ……」
「なんだ」
「俺のこと、好きって言ってるのと同じじゃないですか?」
「え……?」
「いや、だって……俺が、そういう店に行くの嫌で、俺の体に触りたかったんでしょ? じゃあ、つき合えばそれで、万事うまくいくじゃないですか?」
「僕が言いたいのは、そう言うことじゃなくて……そういう、嫉妬深かったりする人間とつき合うなんて、面倒だろう……というか……なんていうか?」
風見が、予想外のことを言うから、僕はどんどんしどろもどろになっていく。
「かわいい、ですよ。」
「は?! かわいいって?! 僕は29歳の男だぞ?」
「ええ……でも、ずっと、かわいいって思ってましたよ。最初のドッキリやった時からずっと。あの演技があなたの本音だったら、どんなにいいだろうって、思ってました」
もうわけがわからない。
なにこれ、むしろ、これこそドッキリじゃないのか? とか、そのようなことを思う。
「降谷さん、こっちの白身魚の唐揚げもおいしいです」
恥ずかしさやら、なにやらで、言葉が出てこない。
「降谷さん?」
「君が、あんなキスをしたから……僕の頭…すごく鈍くなっている」
「ああ、少し調子に乗りすぎましたね」
「本当にな」
「……俺、答えは、急ぎませんから」
僕はどうしたらいいかわからなくて、足のつま先で、風見のふくらはぎをそろりとなでた。
「降谷さん?」
箸を置いて、風見が僕の顔を見つめる。
僕は、椅子から立ち上がり、それから風見の眼鏡を外した。
「え……?」
風見の唇に、そっと、唇を合わせた。
数秒だけのキス。
顔をはなしながら、風見の眼鏡をもとに戻す。
自分の唇をなめたら、唐揚げの衣の味が少しした。
「降谷さん……」
「うん……?」
風見の瞳が、熱っぽくうるんでいた。
「……俺、べろちゅーしたいです!」
「はあ……?! 君、実は、僕の体目当てか?!」
これが、昼間の痴話げんかごっこの続きなのか。
それとも、本当の痴話げんかなのか、僕にはわからなかったけれど。
きゃんきゃん吠える僕を、にこにこしながら見守る風見はとても幸せそうで、それを見たら、なぜか涙がこみあげてきた。