初出:2020/9/4(ぷらいべったー)
降谷さんが、風見さんにハロの世話と頼む理由と寝具に染み付いた風見さんの匂い
降谷さんが自慰をするが、さほどえろくない。
戀と慈しみシリーズ
〇努めよ、わが背 つつがなく
〇君の匂いと、間抜けな寝顔
〇君は、優しいからな
〇ただの人間に過ぎないあなたのこと
――愛犬の世話を部下に頼んだ。
仕事の合間に、できる範囲で構わないと伝えたのに、風見は、ずいぶんとはりきったらしい。玄関の戸を開けたら、見慣れた革靴と、見慣れないランニングシューズがあった。
仕事最優先でと釘を刺したのに……。こんなものまで準備していたのか。
「ただいま」
帰宅のあいさつをする。
しかし、出迎えはない。足音を忍ばせて、ダイニングを横切り、居間兼寝室の戸を開く。すると、そこには思いがけない光景が広がっていた。
眼鏡をしたまま眠りこける風見裕也と、その傍らで寄り添うように眠るハロの姿。風見の右手には、骨を模したおもちゃが握られており。腹の上には、一枚のタオルがかけられていた。状況から察するに、それをひっかけたのはハロだろう。
「まったく…。どっちが世話されてるんだか……」
ずり落ちた眼鏡。着崩したシャツ。だらしない口元。
ちゃぶ台の上の放置された、カップ麺の空き容器とマグカップ。それらを片付ける前に、僕は、風見裕也の間抜けな寝顔を観察した。
動物病院の受付の横にあった、ペットホテルのリーフレット。予防注射の際に、もらったそれは、今も引き出しに保管してある。
そのペットホテルは、深夜の急な依頼に応じることを売りにしていた(むろん、割増料金はかかる)。当たり前だけれど、スタッフは、風見裕也の何倍も犬の扱いに慣れているだろう。
自分でもわかっている。
ハロがなついたから、とか。
深夜の呼び出しが可能だから、とか。
たったそれだけの理由で、風見裕也にハロの世話を任せる僕の行動は合理性に欠けている。風見は、仕事の片手間で犬の世話をすることができない。へたをすると、世話をするどころか、ハロに世話をやかれる。
そもそも、ハロは僕個人のペットだ。
職権濫用の四文字が浮かぶ。百歩譲ってハロの世話を「ゼロの仕事を円滑にするための業務」と考えたとしよう。それでも、風見にペットホテルの手配と送迎を任せれば、事足りる。
なのに、僕は風見裕也にハロの世話を頼んだ。
いつかの風見裕也の寝顔。
帰宅したら、自室で親しい人間が気持ちよさそうに眠っている。そういう事象に遭遇することを、僕は想像したことがなかった。だから、僕は、風見裕也にハロの世話を任せたいのだろう。
しかし。あんなに、間抜けな顔で眠りこけていたくせに。風見裕也は、まじめで、それなりに優秀な男だったから、あれ以降、僕を寝顔で出迎えることはなかった。
公安部の仕事は多忙だ。業務とハロの世話の両立に自身の健康管理。
仕事帰りにハロの世話をしてから、自宅に戻るとなれば、睡眠も不足がちになるだろう。だから、負担を少しでも減らすべく、ペットシッターの期間、風見がバスルームやベッドを使用することを許した。
当初、風見は、僕の提案に対して気乗りしていなかった。
だが、彼は環境適応に長けた男なので、ずいぶんあっさりと、僕の部屋で寝泊まりするようになった。
風見は、いつも、僕が出張から帰る前に、部屋を引き上げる。
使用したシーツ類を新しいものに換え、ゴミをきれいに始末し、見かけ上は自身の痕跡を一切残さなかった。
こんなところで、公安スキルを発揮しなくてもいいのにな、などと、そんなことを思う。けれど、これも、風見なりの献身なんだろう。だから、僕は「たまには、間抜けな寝顔を見せろ」とも「生活の痕跡をそこそこ残していけ」とも、言わなかった。
だが、生活の名残を完全に消し去ることは難しい。
風見裕也が、消し去れなかった痕跡に気がついたのは、三度目の世話を頼んだ後だった。ちょうど、蒸し暑い夜が続いていた。だからだろう。四日ぶりに使った枕からは、僕ではない誰かの匂いがした。
組織の仕事を終えて七日ぶりに帰宅する。
もうすぐ日付が変わる。夕飯は外で済ませてきた。静かに玄関の戸を開け閉めする。よく眠っているのだろう。ハロの出迎えはない。足音を立てないように、そろそろ歩き、バスタオルと替えのパンツを準備する。
ペット用のベッドをのぞき込む。ハロは小さく体を丸め、すぴすぴと寝息を立てていた。頭をなでたくなる気持ちをこらえ、心の中で「ただいま」を言った。
なるべく音をたてないように、シャワーを使う。ドライヤーを使う気力は無くて、タオルを頭に巻き、そのままベッドにもぐりこんだ。洗濯済みのシーツの向こうから、ほんのりと、あの匂いを感じる。
七日間、だ。
そりゃあ、いつもよりもしっかりと、その痕跡は残るだろう。僕は、頭の下から枕を抜き取って、それを鼻に近づけた。風見裕也の間抜けな寝顔を思い出す。七日の間、彼はここで、どんな顔をして眠っていたのだろうか。
「……アン」
控えめな鳴き声。どうやら、ハロが起きてしまったらしい。
なんとなく気恥ずかしい気持ちになる。僕は枕を所定の位置に戻した。
そして、
「おいで」
ハロをベッドに招き入れる。
目が覚めたのは、午前十時を過ぎたころだった。
ハロは、畳の上で楽しそうに遊んでいる。
布団から出ようとして、体の異変に気がついた。寝坊したとはいえ、朝だし。組織の仕事に入る少し前から、処理を怠っていた。そりゃあそうだよな……と思う。
僕が目覚めたことに気がついたハロが、ベッドに飛び乗り、じゃれついいてきた。そして、ぺろぺろと僕の首筋を舐めまくる。僕は、苦笑いをしながらハロを抱き上げ、そのままダイニングまで運搬した。
「ごめんな、ハロ。僕は、飼い犬にバターを舐めさせるような趣味はないんだ。すまないが、これを食べて少しの間、待っててくれ」
ドッグフードを差し出し、ひとしきりハロの頭をなでてから、その場を去った。
引き戸をきっちり閉め、ベッドに体を沈める。パンツをずらし、生理的欲求を鎮めるべく、硬くなったそこに、右手を伸ばした。
僕の枕からは、僕のものではない誰かの匂いがする。その匂いを感じながら、性器をこすり上げる。とても気持ちがいい。十日ぶりの自慰行為だ。僕はあっさりと果てた。
そして、悪いことに、その匂いは、いとも簡単に快感と紐づけられた。
(困ったな、僕には、飼い犬にバターを舐めさせるような趣味はないのに)
――それは、まごうことなき条件反射だった。
警視庁への陣中見舞い。知り合いの寿司屋に頼んだ、特上寿司十人前。
「おーい!! 降谷さんが寿司持ってきたぞ!!!」
「寿司だ!!!」
「うには、もらった!!!!!」
わいわい騒ぐ、男ども。差し迫ったXデーに向け、文字通り、不眠不休の戦いを続けている彼らのテンションは、ちょっとばかりおかしい。
普段、あまり表情を変えない彼らが大騒ぎする様子を眺めるのは楽しかった。寿司が、男どもの胃袋に納まるのを見届ける。
僕は、風見を資料室に呼び出して、進行中の別の案件について指示を出した。
昨日は、家に帰れなかったらしいから、着替ができていないのだろう。ほんのりと汗の匂いがした。風見の顔に視線をやる。まじめを絵にかいたような顔が、口を一文字に結び、僕の言葉を待っている。
「というわけで、僕からの指示は以上だ」
「はい」
果たして僕は、いつも通りに、冷静な自分を演じられているだろうか?
「……見たい資料がある。君は先に戻ってくれ」
「ええ……降谷さん、お疲れさまです。先ほどは、お寿司……ごちそうさまでした」
「ああ、お疲れ。うまくやれよ」
資料の背表紙に手を添えた。革靴の音が遠ざかり、やがて、ばたんと戸が閉まる。
その音を合図に、僕は、その場にへたり込んだ。
(いや……いくらなんでも、この条件付けはまずいだろう?)
五日後。僕は、ひと仕事終えた風見裕也を都内某所に呼び出した。
小料理屋の奥の小部屋。畳の部屋で、僕と風見は、酒を酌み交わす。
「それで、降谷さん……お話というのは何でしょう?」
「……猥談だ」
「は?」
「僕は君と猥談をしたいと考えている」
風見は、しばし考え込んだのち
「それは、例えば……好きなアダルトビデオの話などをすればよいのでしょうか?」
と、のたまった。
「ああ。うん。一般的にはそういうことなのかもしれないが、今回は、僕の話を聞いてほしい」
「……はあ。そうですか…? で、降谷さんの話とは、なんでしょう?」
「君は、パブロフの犬の実験を知っているか?」
どうしたって回りくどい言い方になってしまう。
風見裕也は姿勢を正して僕の話を聞いた。猥談をするのにはふさわしくない、真剣な顔つき。
「ああ。知っていますよ」
「じゃあ、例えば、とある匂いと性的快感が結びついたとして。その匂いを感知するたびにに、性的欲求を覚えるようになったとしたら…どうだろう」
「え……? うーん……えっちで、かわいいなって思いますね」
想定外の言葉に、動揺する。
「……なんだ? それ?」
「え? いや、かわいくないですか? その匂いをかぐたびに、やらしい気持ちになっちゃうんですよね? 俺、そういうの、わりと好きですね。媚薬とか催眠系のAVとか結構好きなんです」
どうやら、風見はそういう状況に陥った女性のことを想定して発言しているらしい。そして、締まりのない顔をしながら、好きなアダルトビデオのシリーズについて語り始める。
「いや。だから、僕はそういうタイプの猥談がしたいわけじゃないんだ。誰かが……ということじゃなくて、自分がそうなったら……という方向で考えてほしい」
「え? そうですね…まあ……不便でしょうね。男の場合、下手すると一目瞭然ですし」
風見は、そう言いながら、まぐろの赤身を口に含んだ。
「そう、不便なんだ」
風見の表情が引き締まる。
「久しぶりの自慰行為だったんだ。それが……まさか、そんなことになるなんて思わないだろう? 枕に染みついた誰かの匂いを感じる度に、そういう欲がこみあげてくる可能性なんて普通、考慮するわけがない」
「……それは、なかなかに不便ですね」
「だろ?」
風見が、箸を下ろした。
「……くびですか? 俺は?」
その言葉に即答する。
「いや。そうするわけにはいかないから、困っている」
「そうですか……」
「うん」
重苦しい沈黙。僕は、冷酒をあおった。
「自業自得だ……。君に犬の世話を頼み続けた僕が悪い……」
「いや、そんなことはないでしょう。あなたが犬を飼っていることは、限られた人間しか知らないのだから……」
「……刑法193条」
その単語に、風見は苦笑いをした。
「あれを職権濫用とするのは、あまりにも大袈裟です」
風見が、襟をくつろげる。ふわりと、よく知る匂いが漂う。
「……白状してしまえば、僕は、あの日見たような、君の間抜けな寝顔を見たかっただけなんだ。だから、ペットの世話をする期間、君があの部屋で生活することを許可した」
「間抜けって……そうでしたか…」
風見裕也が、腕組みをして、首を傾げる。
「ねえ、降谷さん?」
「なんだ」
「そもそも、降谷さんは、他者との性交なり、自慰行為なりを。どの程度の頻度で行うんですか?」
いきなりの質問に面食らう。けれど、風見の表情は真剣そのものだった。だから、正直に答えた。
「……大体、一週間から十日に一度くらいかな……?」
「え……? それ……案外、欲求不満なのでは? どうでしょう、射精の回数を増やしてみては?」
「……まあ、そういう方法も、あるにはあるかもしれないな」
あまり、意識したことがなかったけれど、確かにそうかもしれない。風見の現実的な提案に感謝をした。
……のは束の間だった。
「あるいは、いっそ、俺と一線を越えてみますか? 一発やってみれば、匂いぐらいじゃ揺らがなくなるだろうし。俺の寝顔も見れますよ」
冷酒を飲み過ぎたのかもしれない。顔が火照る。
「……あいにく、僕は、飼い犬に、バターを舐めさせる趣味はないんだ」
「ああ。自分も、バターを舐める趣味はないですね」
「……だろ?」
「でも、そうですね。アイスクリームなら舐めてみたいかもしれません」
冗談とも本気ともとれる言葉。
「アイスクリーム頼むか?」「君は、甘党だもんな」「なんだかべとべとしそうだな」いくつかのセリフが、浮かび上がっては消え、また、浮かんでは消えた。
だから、僕がしゃべるより先に、風見裕也が言葉を発した。
「あなたがよろしければ、抱いて差し上げますよ。挿れるのは無理かもしれませんけど。降谷さんが、俺の匂いのせいで、そういう気持ちになっちゃうのであれば。ちゃんと、気持ちよくしてあげるし、俺の匂いをたくさんかがせてあげるし、翌朝には、必ずや、間抜けな顔で眠りについてさしあげます」
その声は、とても、甘やかだった。思わずその誘いに乗りたくなる。
しかし、どうして風見が、そんなことを言うのかわからなった。
「……君、それは、本気で言っているのか?」
「ええ。降谷さんが、束の間であっても満足した気持ちになれるなら、自分はね……それをしたいって思うんですよ」
風見が、にっこりとほほ笑む。僕はとっさに
「でも、それじゃあ、君になんの得もないじゃないか」
と、反論した。
しかし、風見裕也は不敵に笑う。
「言ったじゃないですか。俺はね。匂いに反応して、発情しちゃうとか……そういうエロくてかわいいやつが、大好きだし。あのベッドで眠る夜、枕にしみこんだ誰かの匂いをかぐのが大好きなんですよ」
そして、僕はいよいよ言葉を失った。
「では……店員さんに、タクシー頼んできますね」
そう言って、席を立とうとする風見に、僕は無言のまま、こくんとうなずいた。
【あとがきなど】
白状しますと。
「降谷さんが、風見さんの匂いで自慰行為をしてしまい…?! その日以来、降谷さんは風見さんの匂いだけで、えっちな気分になる体質になっちゃって???!!!」
という、エロコメを書きたかったんですが。
それだと、前作との整合性がとれなそうだったので、エロコメ路線を断念しました。
(いや……この話でも、微妙に整合性がとれていない・笑!)
(そして、そもそも、私、エロコメを書く才能がからっきしであることを思い出した……なぜ、書こうと思った……?)
余談ではありますが、この風降は、いずれ、バター犬ならぬ「アイスクリーム犬ごっこ」をすると思います。
風見裕也が
「ね? 降谷さん。バターより、アイスクリームの方が、ひんやりして気持ちいいでしょ?」
などと、意地悪を言うやつね。